①いろは親水公園コース
⑨桜堤コース
♦引又観音堂
(所在地 本町二丁目 新河岸川
・柳瀬川合流地点右岸)
☆この観音堂は1967年(昭和42年)
に造られたものです。
この付近にあった聖観音と二体の馬頭観音像を
合わせて安置したものです。
≫聖観音は1687年(元禄十丁丑)正月吉日、
≫馬頭観音は1769年(明和己丑)9月廿三日、
と彫られている、他の一体は年代不詳です。
この付近は新河岸川の舟運時に「引又河岸」
があり、何らかの関係者の供養の為に造立と
思われます。
堂内の中央が聖観音像で両脇が馬頭観音像です。
今でも観音堂には供花が絶えません。
♦引又川河岸場跡
(所在地 本町二丁目 新河岸川
・柳瀬川合流地点右岸)
☆新河岸川の舟運は1638年(寛永15年)
川越大火により焼失した喜多院、
仙波東照宮の再建用資材の運搬が始まりと
言われています。
1920年(大正19年)の河川改修により水量が減り
1931年(昭和6年)の「通運停止令」により廃止。
最盛期の商圏は近隣、近在だけでなく、
所沢、八王子、遠くは甲州にまで及び
ました。
又、熱海から樽詰めされた、温泉水が引又河岸
を経由し町内や所沢方面の資産家宅にも
届けられたとも言われています。
今では往年の賑わい、面影すら感じられないが
新河岸川舟運の数ある河岸場の中では
有力な存在でした。
♦田子山富士塚
(所在地 本町二丁目9番 敷島神社境内)
♠国指定重要有形民俗文化財
☆1872年(明治5年)に築造された富士塚です。
2020年(令和2年)「国指定重要有形民俗文化財」
の指定を受けました。
県内における富士塚は木曽呂富士(川口市)に次いで
二例目の国指定重要有形文化財になります。
築造のキッカケは高須庄吉が田子山塚で
発見した「逆修の板碑」でした。
この「板碑」は浅間下社のご神体として
祀られています。
登拝可能日は開帳され、直接拝する事ができます。
頂上の奥宮には、木花開耶姫の祠があり天候に
よっては、霊峰富士山を眺めることができます。
市内唯一の、パワースポットとして年始の初登拝
には1000名を超える善男善女で賑わいます。
ボランティアによる案内も行われています。
≫(登拝は、事前に確認をお薦めします。)
♦旧村山快哉堂
(所在地 中宗岡五丁目1番
いろは親水公園中州ゾーン)
♠志木市指定有形文化財
☆1877年(明治10年)市内本町に
建築された木造二階建て土蔵造作りの
「店蔵」です。
各種家伝薬の製造、販売「薬店」として
営業していました。
☆1955年(平成7年)に解体保存
・2001年に現在地に移築復元
ボランティアによる季節ごとのイベントも
開催され、建物の案内も行われています。
≫(案内の実施日は事前に確認をお薦めします)
②いろは橋・袋橋コース
③宗岡コース
♦菖蒲沼の三面六臂の馬頭観音
(所在地 宗岡6133-1 荒川河川敷内)
♠志木市指定民俗文化財
☆1683年(天和3年)宗岡村念仏講と
記銘があります。
この三面六臂の馬頭観音は河川敷にあり、
彫も良く風化が進む前に
一見の価値があります。
近在にあった馬頭観音の文字塔をあわせて
「菖蒲沼馬頭観音群」となっています。
馬頭観音は馬が草を食むように煩悩を食い
尽くし苦悩や災難を打ち砕く事を願った
観音菩薩の変化身であるが、いつからか馬の供養
の為にも造立される様になりました。
この「菖蒲沼馬頭観音群」の下流には、
さらに多くの馬頭観音像・文字塔を集めた
「大割馬頭観音群」があります。
♦上の氷川神社 (所在地 上宗岡2-2-34)
★須佐之男命の漆喰絵馬
☆創建は1078年(承歴2年)と言われています。
武蔵一之宮の氷川神社を分祀したものです。
祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)。
1351年(観応2年)に下の氷川神社の
建立時に茶臼石の上部を「下の氷川神社」
に分けて社殿の床下に埋めた
と言われています。
(なお 茶臼石の下部は 上の氷川神社に
残っています。)又、上の氷川神社は南向きに
建てられ、下の氷川神社は北向きに
建てられています。
なぜならその間に住む宗岡地域の
氏子の末永い加護を願った強い思い
があったと思われます。
参拝時には社殿の外側に掲げられている
市内で唯一の「漆喰絵馬」があります。
ぜひとも見ておきたいものです。
♦産財氷川神社<中の氷川神社>
(所在地 中宗岡2-29)
♠志木市指定有形文化財(本殿)
★本殿の彫刻
☆創建は1429年~1441年(永享年間)
と言われています。
武蔵一之宮の氷川神社を分祀したものです。
祭神は須佐之男命(スサノオノミコト)
本殿には鯉の滝登り、下り龍等の
彫刻が随所に施されており意匠的に
も優れた建物です。
但し 本殿の周囲には板塀があり、
直接触れることは出来ません。
板塀の隙間からの見学は可能です。
また隣接地には1892年(明治25年)
に築造された御嶽山があります。
<個人所有>
♦天神社(所在地 中宗岡1-4)
☆創建は不詳
江戸の湯島天神を分祀したと言われています
諸説があります。祭神は菅原道真、
本殿脇に「水神宮」の碑が建っています。
筆者は「神山雲眠」です。神山雲眠は
江戸時代末期の書家です。
「龍眠」に師事し技量が優れていたため
「龍眠門下の三民」の一人と言われました。
また「水神宮」石碑の隣には
「大講義高美玉姫命」の碑があります。
がこれは天神社の隣地(現、しびらきホーム)
に建っていた御嶽教の「普寛堂」に居た
行者の神霊碑を移設したもので天神社とは
関係がありません。
④西原コース
⑤幸町・館コース
♦鎌倉街道の跡(所在地 幸町2)
☆鎌倉街道の幹線道路としては、上道、
中道、下道が有名です。
このうち埼玉県内を通過しているのは
上道と中道の二本です。
ここの「街道の跡」は上道と中道を結ぶ
脇道の様な位置づけであったと思われます。
しかし、「西原ふれあい第三公園」として
整備された結果、往年の面影は見られない。
又、鎌倉街道と言われる街道は時代の推移
により移動しており大小取り交ぜて多くの
地域で「旧鎌倉街道」または
「旧鎌倉街道跡」が見らます。
「いざ鎌倉へ」と武士が通った歴史があるかも・・・
⑥三日月湖コース
⑦せせらぎの小径コース
♦虚空蔵菩薩(所在地 中宗岡4-4)
♠志木市指定民俗文化財
☆1699年(元禄12年)12月の記銘があります。
虚空蔵菩薩は、無限の知恵と慈愛の心を持ち人々
の願いを叶えてくれるとされています。
昔この付近にあった三貫田(虚空蔵)
の池に近在の、目が不自由な子供が嵌って
しまい亡くなったとの事です。
それを悲しんだ一家は眼病に効果があると言われる
菩薩像を建立し娘の供養としたと言われています。
又、山口某と荒井某との決闘にまつわる話にも三貫田
の池が舞台となっています。
♦下の氷川神社(所在地 下宗岡4-2)
☆創建は1351年(観応2年)と言われています。
上の氷川神社を分祀したものです。
祭神は須佐之男命、奇稲田姫命、大己貴命、
社殿前階段脇の「力石」は主に江戸時代~明治時代
にかけて盛んに行われた、村の若者の
「力自慢」や「力試し」に使われた石です。
4個の「力石」のなかには 下宗岡在住の
「荒井某(生死不詳)」が当神社で行った奉納演技
で使用しその時に奉納した石もあります。
(但し文字が判読不能の為、石の特定は不可です。)
荒井某は 国内、海外を興行巡業しており
最後の海外巡業の出発前には 60貫(約225㎏)の
力石を持ち上げて 自宅を一周したと言われています。
境内には、野火止用水掘削に功績のある松平信綱と
宗岡地域の用水導入に功績のあつた白井武左衛門
の碑が並んで建っている。
また社殿内には、数多くの「絵馬」が
掲げられています。
⑧本町/柳瀬川周回コース
♦上の水車跡
(所在地 本町6-1 本町三丁目交差点角)
☆玉川上水から分水された、野火止用水を通った
水は引又宿を通り宗岡村にまで達しています。
引又宿には、この用水を利用した三台の
水車があり,上の水車,中の水車、
下の水車、と呼ばれています。
上の水車は1776年(安永5年)の開設と言われ
引又宿の中では一番新しい水車でした。
水車では製粉、精米等々が行われていました。
♦館氷川神社(所在地 柏町3-6)
♠志木市指定有形文化財
(修復記念碑・図像板碑)
☆創建は不詳、祭神は須佐之男命
「図像板碑」は1486年(文明18年)の
日付けがあり、市内唯一です。(非公開)
☆「氷川大明神修復記念碑」は1853年
(嘉永6年)の社殿改築時の建立と思われます。
碑の寄進者の多くは「苗字」が記されています。
これは「江戸時代、庶民は苗字を持たない」と
言われた通説を覆した貴重な文化財です。
「氷川大明神修復記念碑」は、本堂に向かい
左側の前面に建っています。
☆境内には富士塚もあり、坂上田村麻呂の
伝説や本来ならば対(二本)の灯籠が一本しか
残っていない(残りの一本は敷島神社です。)
等々見どころ満載。
また神社の入口の鳥居も銅板に覆われて歴史を
感じる事が出来ます。
≫是非、一度は拝すべき神社であります。≪
♦宝幢寺 (所在地 柏町1-10)
☆創建は不詳、
・宗派は、真義真言宗智山派
・本尊は、延命地蔵菩薩
☆市内有数の巨木包まれて本堂があります。
詳細な寺歴は火災での焼失等々の為、
明確ではありません。
本尊は「秘仏」とされ非公開になっています。
志木における「カッパ伝説」の発祥元です。
≫ほっぺの黒いお地蔵様
≫和尚に助けられたカッパ、の伝説が残っています。
このカッパの話は1809年(文化6年)の
「寓意草」に初めて見られます。
境内のカッパ像「大門」は、和尚に助けられた
カッパの恩返しをモデルにしています。
三代将軍・家光が「鷹狩り」の時に休憩した
とも言われています。